フィルターを通すという意識と、フィルターになってしまうという意識
自分が制作するのだから、自分がその制作物にとって必ずフィルターとして存在してしまう。
意識して荒くしたり密にしたりは出来るかと思うが、かならず存在してしまうのは確か。

「目のありのまま」を写そうとする際に、絵画とフィルム作品には真逆とも言える隔たりがある。
絵画は対象物のありのままを描く際、個人の眼を消さねばならない。
作者の体がそこに見えてしまうと、ありのままではなくなる。
反対に、フィルム作品(写真や映像)はその空間に作者が居る状態がありのままの状態になるハズなので、作者の体がそこにある状態で無いとありのままではなくなる。
ドキュメント映像とかって、カメラを回す人の存在が気になるが、カメラがあり、そこに人がいる事がその映像を撮っている事という事になる。
映像で作家を消すとドラマみたいに造りこんだものになる。
絵画は作家の操作がそのまま見える物だから、作家をあえて消すことが対象物に近づく。
作家が見えてしまうのはありのままとは離れてしまう。
なんかややこしい。
