田中功起氏の「言葉にする」という数時間のトークを保存する試みはその存在自体が面白いと思う。
美術はマテリアルを使用するメディアだが、あるマテリアルが生まれても表現になるまでにかなりタイムロスがうまれる。
逆に誰かが素晴らしい表現にする事でそのマテリアルが一気に咀嚼される。
音楽やTVなど別のメディアでは珍しくない手法も、ブレずに美術のフィールドに移植するのは難しかったりする。
その作家の影響力だったり、コンセプトだったり、労力だったりハードルは多々ある。
田中氏の今回の試みは自身の表現から飛躍せずに、表現や制作の澱までみせる(聞かせる)試みで、なんだか僕には「表現の線引きとかもうイイじゃん」って言っている様に聞こえる。(この「言葉にする」は作品ではなく、必要にかられて造る作家の思考のアーカイブ要素が強いけど・・)
田中氏の作品は日常のある当たり前の作用や当たり前の心の機敏を時にシンプルに、時にあえて手をかけて見せてゆくものだと思うのだが、作家自身もっと日常というスープの中身である「人参は人参」「ジャガイモはジャガイモ」と観せてゆくのと同時にスープ自体としても観せたい(観たい)のではないだろうか?
表現は時に選択する作業で、より削ぎ落とす事が求められる。絵画は特に削ぐ事を強いるメディアだと思うが、田中氏はスープを見せる為に具を拾っていたらいつかスープごと見せられるという事にいち早くというか必然的にというか到達したのかなと感じた。
これは(僕の)絵画には無い発想で、かつとても不安定で難しい試みだけど、素晴らしいと感じた。
がんばってほしいです。
田中氏の作品を数万回と繰り返せば日常になるのか。
例えば病人の語る「死」のみをクローズアップしたらそれは重いが、実はそれが百ある話の中の一つだったら急に重さが変わる。
軽くか重くかは別にフラット(日常)に近づく。
垂れ流しのようにダバダバと言葉が蓄積されてゆけば、それが大きくなったときにとてつもない像になりそう。
作業をしながらざっと聞いた感じでは(たぶんそうやって聞くものだと思うし・・)話の内容よりも、途中で聞こえる咳や何かを開けたり擦ったり引きずったりの音の方がむしろ田中氏の作品を連想して、普通に会話をしているのにまわりで作品の様な出来事が起こっているように連想されて不思議だった。
逆に、話題を進行させようとしている感じは、当然ながらテレビやラジオの司会者等より全然流暢ではないので、そのたどたどしさが気になった。
まあ、そのたどたどしさも田中氏の作品の要素だったりもするのだからややこしいのだが。。
Youtube等で配信される、下っ手なコピーバンドの練習なんかも、田中氏のフィルターをかければ彩度があがるかも。
土佐日記から綿々と日記が大好きで、ブログ大国の国民性。積み上げる事が文化的に得意な日本人を前面に押し出した制作って感じがする。(最たるものは河原温かな?)
【追記】
田中氏の制作は「簡単に想像出来るけれど見たことの無いもので世界を広げる。」という感じがする。

ネットメディアの美術情報を個人的に選択処理してゆく能力で言えば福居伸宏氏のサイトÜbungsplatz〔練習場〕がすごい。僕にはちょっと考えられない情報処理能力。
福居氏自身は写真家であるが、自身の制作と共に今の美術内の動向に対して明確なフィルターを使って選別する様は痛快だ。(上の「言葉にする」もこのサイトで知った。)
ココまでかなり強烈にアート~写真界に寄ったセレクトを実現できる人ってやはり少ないと思う。
制作者として膨大な撮影をこなしている事が、さらにその能力の裏づけになるのだけれど。
※街中の夜景を撮ると福居氏の写真を思い出してしまう。上の写真は街中ではないからそうでも無いけど。
さらに、美術の作品が早いレスポンスで知られるようになった原因として美術ブロガーの方々の存在が大きい。
ex-chamber museum・弐代目・青い日記帳・徒然と ・はろるど・わーど等のブログ運営者が各都市に5~6人いれば、日本中の美術はほぼ網羅されてしまうのではないかと思う。
そして、その意味は美術にとって絶大な力を持とうとしている。
何かしら自分の能力を発揮することが表現だとしたら、これらこそ表現なのではないかと感じる。
創作・選別・鑑賞(発信)・・・と別々の役割がリンクしてゆくという特徴がなんか美術内でもこなれてきているのかね。
うーん・・制作しよ。
