今年1151個目の作品。


作品加筆。
作品梱包。
作品発送。

9月22日~24日
大阪・海岸通ギャラリー ・CASOにて、ART in CASO 2006に出品します。

アートフェアってまだ上手く噛み砕けていないです。
近隣の方で行ける人は、連絡を頂けると入場券をお送りできるかも?
僕はちょっと時間的に大阪に行くのは無理そう。
観たいなー。。。

誰か行った感想とか教えて欲しい。
あまりアートフェアに行った事が無い。ニカフぐらい?

ヴァイスフェルトの個展が「どうしてこうなったのか?」という質問があったので答え。
「どうしてこうなったのか?」と言う質問のニュアンスには、「なぜ今まで大きな作品だったのに小品を並べたのか?」と言う事と「なぜ小品を並べる事に至ったのか?」という両方を含んでいると思うので、それぞれ答え。

「なぜ今まで大きな作品だったのに小品を並べたのか?」
作品の展示を観る際に、現在見えている状態とは別に今までその展示空間が持っている経験も視野に入れていると思う。
今までのヴァイスフェルトの展示等も踏まえて、僕の作品は鑑賞されているという一面を持つ。
僕の今個展「三千世界」の前には、藤芳あい、フロリアンクラール、佐藤好彦と三作家続けてほぼ1点の作品でドーンと空間構成をしていた。
それをそのまま踏襲すると、作品が見え難くなると思ったので、ある一作品と対峙する鑑賞者というフォーマットを変えずに(1壁面と鑑賞者)、作品自体を1012点に増やした。
これで、1点に対する観え方の幅が広がったと思うけどどうでしょう?

また、ヴァイスフェルトの空間には、正面壁の手前に構造上の大きな梁がある。
その圧迫感はかなり強いので、大きな平面作品を展示するのに向かないと感じていた。
その際に、オーナーの池内さんから「小作品で展示出来ないか?」という話を持ちかけられた。
僕は5×5cmの作品にまだかなり可能性を感じていて、いつかこの作品で空間構成をすると思っていたのでちょうど良い機会だと考えた。
ただ、小作品を広い空間に少なく(例えば一点)展示するのは抵抗があった。
作品はどうしても「崇高」な感じで展示されてしまう。(語彙が無いので上手い表現が無いから左記の「崇高」と言う言葉を使いました。あまり自分の作品に使いたくない言葉。)
5cmの小作品は大きな作品とある意味対極にある作品なので、1点で観るにはどうしてもそれに対応する展示や作品が必要になる。
それに、1点に大きな空間を与えるのってちょっとバカっぽい。(MOTアニュアル2004やふなばし現代美術展06でもこの展示法は使っている。良い意味でのバカね。)
それを払拭する言葉として、「湯水の様に作品を観る(会う、浴びる)」という感覚が出てきた。
それを精査してプランニングをし、1012点の制作につながりました。

「なぜ小品を並べる事に至ったのか?」
これには、「内海の作品の延長上最先端が大きな作品を通り越して小品になったのか?」という感じが含まれていると思う。要は「結果こうなった」という理解。
それは、少々間違っている。
僕は「絵画」と言う物が表現できる事って本当に小さな一握りの事だと思っている。
一つの作品、展示にて一々結論を出している訳ではない。
僕にとって、一展示一展示が「僕が絵画を理解する過程」だと思っている。
大きな作品では小さな作品について言えないし、黒い作品では赤い作品について居えないのである。これは当たり前。
僕は、「絵画」を「僕」とは全く離れた、絵画として独立している物だと思ってる。(だから絵画の中に僕の感情とか手癖とかが大いに入る事を嫌う)
例えば、ネズミを理解しようと思ったら、解剖したり、運動能力を調べたり、育ててみたり、繁殖させたり、色々アプローチするとおもう。
それらは全てネズミの一側面であり全体ではない。
ただ、理解する為には出来うる限りの場面で経験し統合する必要がある。
僕は今までの10回近い個展の中で、一々絵画の1側面を経験しているのだと思う。
全て並列な感覚に近いのだ。
ただ、今回の展示は見え方が今までと大いに違う為に、それらの仕事を時間軸で捉えられてしまったのかもしれない。
しかし、今個展を体験する事で、僕の今までの作品をより理解する事になり、また今後僕が制作する作品を理解したり、同時代に制作される作品についても理解する幅となると思っている。
まだまだやる事は沢山ある。

制作する機会をくれる皆様に感謝。