カナリアとしてのアート
文化という名の自衛
311の地震以降、原発の是非について各地でとりだたされています。
多くの意見が飛び交う中、5月5日の柏崎原発の停止によって、日本から42年ぶりに全ての原発の稼働が停止しました。
日本各地で、未曾有の災害を前にして、自分たちが何をすべきか、何が出来るのかという議論が重ねられ、美術も美術家も、自分が何をすべきかという問いを突きつけられたと思います。
初めて洞窟に入る際、ガスの探知機としてカナリアを籠に入れて持って入ってゆくという話があります。
ある美術家はカナリアとして、表現者である自分のアンテナを鋭敏にし、原発とそれに伴う社会を現視化しました。
ある美術家は、癒しとして作品をつくり、ある美術家は美術による心身の成長を願ってワークショプを続けています。
誰しも未曾有の状況に直面した時、直感に従って動くしかなく、その中で、僕は制作をする、きちんと良い作品を残すという事を考えてきました。
僕たち日本人は、正直、大量の放射能のなかで、今後どのような状況になり、どのような問題が起きるのかという壮大な実験をする試験管の中にいます。
それはまさに洞窟のカナリアと同じ状態で、カナリアの動きにより様々な情報が得られるという事になるでしょう。
そこでは、カナリアは「人より先にガスで暴れて死ぬ。」という機能としての側面でしか語られません。カナリアも生き物です。カナリアは自衛の為にどうすれば良かったのでしょうか?
僕は、カナリアが自衛の為に文化や歴史をきちんともつべきだと思います。
もしそのカナリアを大切に育てる小さな少女がいたら。
そのカナリアの鳴き声が評判の美しさで、皆に愛されていたら。
カナリアにまつわる神話や宗教があったら。
そうすればカナリアはもしかしたらその洞窟で強制的に生命を閉じる事は無かったと思います。
カナリアが自分で自分をかわいがる少女をつかまえる事ができるわけなないだろうと思いますが、そのカナリアは人間であり日本人であり私たちでもあります。
僕は、日本の美術家が良い作品を造ることはもはや急務だと考えています。
実際、良い作品は造られているし、良い作家も沢山いると思っていますが、さらに多くの良い作品が生まれ、それが文化的に認知されてゆく事が急務だと考えます。
ポンペイが今も知られているのは、火山により一瞬で町ごと飲み込まれたという事実もさることながら、様々の栄えた文明や素晴らしい作品を残しているということも原因として強いと思います。
戦争が批判される一端に、大量の死者や不幸な負傷者が出ることだけでなく、多くの文化が失われるからでもあるでしょう。ヒットラーがある美術を弾圧したのは有名ですし、ユダヤ系の多くの作家が国を追われているという個々人の例を見ても文化的なロスがあった事が細部にわたり、批判の対象なるかと思われます。
おそらく、今、アフリカや中国で何かしらの少数部族が無くなっても、それを知る手だてはありません。
日本国内ですら、廃村になったり、合併で名前が無くなった地域を惜しんだり知ったりするのは、そこに重要な文化や思い出があった場合になるかと思います。
パンダはそのかわいさで、クジラはその知性や大きさによって社会的に守られている動物です。
その特徴により、絶滅の危惧にある事は確かなのですが、保護の名目を与えられぬままだれも知らずに絶滅する動物はさらに多いと容易に想像出来ます。
僕たちはゆるやかに殺されていっている事は確かなのですが、だからこそ良い制作をする事は、健全な日本を造り育て伝える手段になるかなと考えます。
もちろん、日本の為に良い絵を描くなんて考えなくても良いと思いますが、個人的な精度を上げる事がいつか日本を考えたり守ったりするピースになるかもしれないという考えでした。
個を拡大すると社会になります。
「名作を造ろう。」
などと言いながら、僕の次の作品が名作でなかったら、それはそっとしておいてください。

制作。
