今いじめが大きく社会的な問題となり、いじめへの励ましのコラムや有名人によるいじめられ体験のカミングアウトなどを見る機会が多くなった。
それに対して伊集院光がラジオにて、「もしいじめられている人がいたら、その時は心が狭くなってしまっているから、そんな言葉は響きにくいし、一つのいじめに対してそれより多くの加害者がいるはずなのに、いじめていたという意見は聞かなくて、誰も不利な事は言わないそんな世の中だ」という話をしていた。
ボクシングチャンピオン内藤氏がいじめられた過去をカミングアウトした際に、後からその当事者に「あれってもしかして自分の事か?」と聞かれたという話があった。
構造としては、いじめには数人のターゲットがあり、それらが逆らえない数(基本的には数倍多く)の加害者がいるはずなのだが、構造外の各々の認識の中では加害者も被害者も存在していないのではないかと思った。
ここでは、被害者の認識内では自分とそ れに類するターゲットをいじめられっことして認識できるが、自分に危害を加える存在を、実行犯、相談にのってくれなかった教師や友人、見ていたクラスメイ ト、そして、例えば偶然道で目があった人や、肩がぶつかってしまった人、自転車を倒した人とか、つまづいた石など自ずと範囲を広げてしまい、自ら圧迫され てしまう。
被害者はこんなにも苦しい状況に追い詰められているのに、加害者が不在という軽さがあるのでは?
当事者の不在感は美術にもいえ る。

制作。
