「あらゆる時間」について
自然光で制作をしていると、いつの間にか日が暮れても作業をしていて、気がついて照明を着けると今までとても暗かった事に気がつきます。
それまでは、時間とともに様々に変化に飛んだ色を目が享受していたはずなのですが、明るさによって一気にある画一化された色彩に引き戻されます。
作品を取り巻く環境は、作品を観せる為になるべく一定の状況を造り出そうとしています。
ホワイトキューブはもとより、照明や導線など、さまざまな要素を作品が見えやすいようなレンジに合わせていると言えます。
でも、絵画には観えにくい時間も観えない瞬間も実際には多くあります。
クロード・モネの連作「ルーアン大聖堂」は対象物であるルーアン大聖堂に訪れるあらゆる時間を絵画として画面に写した表現と言えます。
ただ、「絵画」という物質自体にもあらゆる時間が訪れています。
何気なく制作を始めた今回の連作が、絵画の「あらゆる時間」を煮こごりのように切り取ったようだなと感じこのタイトルにしました。
と、展覧会コメントに寄せたのですが、やはり言葉が「切り取ってしまう能力」は明快でありすぎて制作の感覚とズレがあります。
実際はもっとグズグズしています。
以下メモ書き程度に。
1)作品のかたち
今まで自分の制作の過程で「絵画のかたち」を四角形以外にする場合には、ある程度理由付けがあった上でそのかたちになるという方法を取っていた。
しかし、今回は「ただ多くのかたちをうむ」という理由において変形させているので、そのかたちに意味が無い。
ただ、その過程で絵画の形態について何か拾えるか。
2)額のサイズ
壁面と身体との距離が近いギャラリーなので、目と画面が近い状態で作品を観るという状態を想定。
身体的に圧迫感のあるサイズとして額をh872×w682×d85mmに設定した。
ギャラリーのサイズのみを絵画のサイズ決定の根拠にすると、もう少し小さくなる可能性があるのだが、そこに身体感を入れるとサイズに変化があらわれる。
展示用の額ってマジマジと見ないようになっているとはいえ、空間に対する絵画のサイズ感と額のサイズ感を比較すると明確にイメージが違うので、やはり額装というものが見えていないわけはなく、絵画を見せる為の装置として目にみえながら作品に作用している事が分かる。
今展では、この額のサイズが一定である事が担保されている事が、前記の絵画のかたちをむやみに変形させる事を容認している。額装があるという事で、絵画にある制限を一つ解除したような感覚。
ちなみに、同ギャラリーで2009年に展開した「千手」という作品で、個人的な絵画感のあるサイズの絵画としてh700×w640 mmの作品を12点展示している。
3)額の色
これが今回の作品のキモの一つなのだが、個人的なキーワードとして「絵画の色彩を見えるかたちで外に滲み出す様な感じ」とか、「絵画技法の1つであるグラッシを絵画の外に出した感じ」とか、「観える事の為に見えない操作がされている」、「絵画の気配だけがそこにあって、絵画が見えない」、「観えているという単一な鑑賞構造」、「アクリルボックスの色や硬質感ってきれい」、「額装されているという面白さとつまらなさ」「絵画ってそんなにはっきり観る物でもないのでは」というような絵画や絵画と鑑賞者の間にある個人的な感覚を抜き出してそのなかで、「あらゆる時間を切り取った様な光量」というイメージから冒頭の文章にした。
4)鏡面としてのアクリル
フランシス・ベーコンの展覧会にて、作品の額に低反射ガラスではなくわざと反射のあるガラスを使用したという記述があったと記憶している。
作品のディフォルメされた人体と鑑賞者自身の身体を同時に目に映るようにしたのだと思うが、その物質として「絵画の入った額」を強調する。
鏡面を展示に取り入れる事を何度か考えているのだが、見えすぎるというか、露になりすぎるので触れられないでいた。絵画に必要な「額」のアクリル面の映り込みは展示に対してある程度影響があるのではないか?
大きな絵画を鑑賞する際に顕著なのだが、絵画というものは、「観る」事を宿命付けされながらもその「全て」を観る事は到底できない。
また、僕自身の制作や展示を振り返ると、「全てを観せる」ということにあまり重きを置いていない。
それでも、「観る」という業をおった存在である絵画を制作する。
今回、透明度が無くて全く中身が観られない額の作品も何点か制作しているが、「絵画の全てを観る事が不可能」という事と、「そもそも観る事が不可能な絵画」との間に何の違いがあるのか。
その見える事の無い絵画を描く、徒労とも諦めともつかぬようなものと常に付き合うのが制作を続ける作家の業なのかなとも思う。
2018年10月 内海聖史
