外苑前/作品移動。
・出光美術館:酒井抱一生誕250 年 琳派芸術 —光悦・宗達から江戸琳派—
抱一生誕250年と銘打った展覧会なのに、抱一の作品は墨絵1点しかない。
一部二部に分かれていて、二部に抱一が集中してる。
抱一観たかったなぁ。。。
・国立新美術館:未来を担う美術家たち DOMANI・明日展2010

欲求や欲望で描くのだが、歴史や状況で判断する。
制作基準が欲求から離れてしまえばそれは空虚になってしまう。でも、判断を欲求にしてしまえば、それは個人から離れられない。
始まりを身体にするのであれば、例えそこに下卑た打算があろうとも、おぞましい憎しみがあろうともかまわない。本当にそこから始められるのであれば。
身体の事だから、そこは現実的に。
何が自分のパフォーマンスを上げるか。
例えば同じ建設現場でも、監督や施主の違いで質が変わる事があるのはなぜか。
判断を個人から離すのは、結局客観的に観ても作品の質を上げるため。
どうしても社会に生きているから、自己判断も社会的な判断を含んでしまう。
作品の判断を個人の内にするとしたら、個人の「下限」ではなく個人の「上限」に判断基準を設定すれば自ずと社会と繋がるかもしれない。
