ラジオで俳優のインタビューを聞いていて考えた事。
俳優(と一括りに言うのは乱暴だが)が話す言葉は抽象的だ。
表現としてアウトプットされるものの抽象度が高いからだろうか?
「なぜ、あの時(の芝居で)あんな動きをしたのか自分でも説明できないけれど、何かが降りてきた様に体が勝手に動いて云々~。」
という話をしていたが、ある事に対して明確な技術が確立しづらいものなのかしら?
喜怒哀楽と言っても、怒っている演技にただキーッってなれば良いわけでは無いだろうし、また喜怒哀楽のどれでも無い状態で日々暮らしている事が多いし、そこも含めて観られる(表現する)対象だし。
「怒っている様な悲しいような表情」という演技をする必要があったとして、怒っているような悲しいような表情を実際したとして、それが怒っているような悲しいような表情かどうかはどう評価付けるんだろう?
でも、少なからず僕たちはそんな作業を日常しているハズだ。
昔、丹波哲郎がテレビの前でいくつか同じセリフを繰り返し言って、「全て別の感情で演技した」みたいなことをやっているのを思い出した。
当時の僕は(多分今の僕も)それの違いが分からなかったし、違いが分かったとしても、それが感情の違いや良し悪しの違いに結びつかないと思う。
でも、感情の違いというものがある事は確かだ。
う~ん。言語化し難い。
今日はドローイングと小品の加筆と図面引き。
