多摩美術大学造形表現学部の講評に参加。
目にした作品をすぐに言語化するのはとても難しい。
例えば、美術館やギャラリーで展覧会を見た時にすぐに言語化されて認識するのではなく、帰り道や、ふと思い出した時にパラパラと理解されてゆくことはとてもよくある。
煮詰まったら歩きながら考えて行く事もあるくらいだ。
本当はタイムラグがある物なのだと思う。
ただ、講評の場というのは、生徒が教員の意見を浴びせられる場ではなく、生徒が教員の意見から必要な言語を拾う場なのだろうと思う。
講評は3時間以上作品についての言語が飛び交う場となる。
言語はある個人のみにだけ向かうという性質の物ではなく、Aさんの講評の際に発せられた言葉はBさんにもCさんにも有用な言葉になり得る。
その言葉を拾い集め、自分の中で必要な形に組み立て、自分の制作に使用する。
そうやって、自身の制作を進行させる型を造る場なのだと思う。
だから、講評する側はなるべくいくつもの引き出しから言葉を出すという事が求められていて、何を拾うのかは講評される側にゆだねるしかないのかなとも思う。
僕自身は、こういう事に向いていなさを感じるのだが、かといって絵画を制作する事に向いているのかと言ったらそうでもないだろうし、これが事務でも接客でも飲食でも同じように感じるのだと思う。
何々の為に生まれたというような物が人にあるとも思えないので。
だから、そられに耐えて、なるべく誠実に返す事が必要なのだと思う。

ドラゴンクエストの最初の敵に水滴の形をしたスライムというキャラクターがいる。そのキャラクターは群れで行動していて、他のスライムの形を見ながら自分達の形を維持するので、皆柔らかいのに同じ形をしているという設定がある。(だからはぐれスライムは溶けた形をしている。)
僕はこの設定がなんだかスライムというモンスターの知性を感じて好きなのだが、制作の場合、このように周りを見ながら自分の作品の質を決めてしまうと自分で型にはめてしまう事になり、作品の質を飛躍させられないような気がすると思った。
