京都芸術センターの展示の際に、床を掃除したり、壁を補修、塗装したりという作業にまる一日費やした。
広い空間なので、かなり無心になって没頭しながら、「なぜこんなに壁を塗るのだろう?」という根本的な事を考えていた。
壁を補修したり掃除したりするなんて、当たり前すぎてもはや最初にやりだした動機すら忘れてしまった。

絵画は絵画のある空間を保有していることが前提の表現である。
ということは、絵画のある空間も現に見えるものとして存在している。
存在している以上、作品をよりよく観られるように操作した方が良い。
というような動機だったはず。
しかし、さらに、なぜ自分の出来る限界まで作業してみるのかと考えていると、僕は鑑賞者の精度をかなり高い物だと設定しており、しいては、鑑賞者を敬う立場で制作しているのだと思う。

自分が妥協したら、それは鑑賞者に対して侮辱する事になるし、自分の矮小さをさらけ出す事にもなる。

鑑賞者は解像度がバリ高い眼で展示空間に現れ、一瞬で作家を凌駕する情報を得て消化してしまう。
そのキレキレの処理能力に対してこちらも少しでも画面も空間も解像度を上げてゆく事がお互いを高めあう事になるのではないかと。

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19日のトークにて、この壁を補修した話と、「絵画はどれだけ長時間かけて制作しても2秒くらいで全て認識されてしまうし、展示空間に入った時点でほとんどの判断は済んでしまっている。2秒を超える事が出来れば、作品に近づく1分、空間を回る数分、じっくり観させる数時間、もしかしたら、その鑑賞者の一生の時間というふうに時間を獲得する」というような話をしたら、そのトークを聴いた方に「それは展示をよく観る人の意見だ」と言われた。

その意見で、ふと要約すると、「もしかしたら、自分の眼を欺くような制作をしてはいけない」と考えているのかな?というふうに考えが1周した。

なんだか、自分自身を「観る個体」として設定し、10年以上展覧会を見続けていた事が、自分の制作とリンクした感覚が味わえて少し報われた気がした。