からだから


人は常に予測をしながら生活していて、その予測の上にその予測と寸分違わぬものを乗せるのが日常であり、制作は日常のように行なうのだけれど、その日常をどのように回避するか。
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遅ればせながら、月刊ギャラリー5月号に掲載された小金沢智氏による個展の展覧会評を読む。
自分の感じた「美しさ」に対して強く切り込んでゆく姿勢にとても勇気をもらった。
カロンズネットの平田剛志氏も同展示の表現として「美しさ」という言葉を選んでくれた。
評論をする人にとって自身の「美しさ」を表明するのはとても難しい事なのだと思う。
小金沢氏の文中にもある通り、その美しさが伝わる様に言語化する事が評論の仕事でもあるからだ。
それが転じていつの間にか「美しさ」は思考停止の言語として使用すべきでないものという現象まで起こっている。
さらにそこから離れるべきだという考えも。

上記の文章中にもあるように、「美しさ」はその作品から受けた身体的な前提であり、それを解釈してゆく事が求められるのだと思うのだけれど、前提である以上、前提を認める事が必要になるのではないだろうか?

美味しい食事をレポートする際に、香りや歯触りやコク等を伝える前に、自分がこの料理を「美味い」と感じたという前提を認めたという意思確認が必要な気がする。

以前ダチョウ倶楽部が一瞬使っていたギャグで、何かを食べた際に評論家であるという体で「甘からず・・辛からず・・美味からず。」と一言一言タメを造りながら呟いて「不味いのかよ」というツッコミを誘う物があったのだが、この「甘からず、辛からず」は「美味い」という前提を共通認識で全員が周知していることで「美味からず」で落ちるわけで、なぜ人が「評する」かというと、その事柄に対して何かしらの身体、心情的な変化を感じ、伝える為なのだろうと思う。

どのような作品でも、その作品から最初に受けるものは、「美しい」「面白い」「ツマラナイ」「痛い」など、身体として感じるものであり、それを解体してゆく作業がその後に始まるというのが物事の順番なので、意思表示として素直に「美しい」という言語を使用された事に僕は彼らが僕のの個展を言語化する決意を感じたし、その行為にきちんと制作で返せたら、その関係性は美しいのではないかと思った。

こんな事を考えていたらtwitter上でこのような文章をみつけて、なるほどと思った。
○作家鈴木光司さん曰く表現する事は勇気を持つ事。花は美しいというと「美しくない花もある」という人が出てくる。そのクレームを想定し「美しい花もあるが美しくない花もある」と書く。それはもはや言う必要のない文となる。全ての人が納得する文では表現にならない。勇気が必要なんだ。力をもらった。
−@makinoana

暑い。